1月12日、東洋経済オンラインにて、横浜市磯子区の「洋光台」に関する記事が公開されました。

なぜ、今回、横浜の住宅地を取り上げたのか。
本記事では、私が取材を通して伝えたかった「横浜のイメージと現実のズレ」、そして風景の裏にある都市の変遷について補足します。東洋経済オンライン公開記事をより深く読んでいただくための補助線としてご覧ください。
「よそ行き」の横浜と「生活」の横浜
私が記事を通じて伝えたかったのは、世間で流通する「横浜」のイメージと、実際の生活の場としての「横浜」の決定的な乖離です。
私は出身も育ちも横浜市内ですが、市外の人から向けられる「横浜出身者」への眼差しには、常に違和感がありました。彼らが思い浮かべるのは、みなとみらいの建築物や遊園地、中華街、山手の洋館といった華やかな風景です。
しかし、実際に住んでいる人間からすれば、それらは「よそ行き」の顔に過ぎません。多くの市民にとって、生活の場としての横浜はもっと泥臭いものです。
横浜の住宅地の大半は、丘陵地にあります。
丘陵地に広がる住宅地について、水害・公害を避けた場所といえば聞こえはいいですが、実態はそういうメリットだけではありません。多摩丘陵の南端、凹凸の激しい地形を強引に切り開いて造成されたため、道は狭く入り組んでいます。
道路の質が悪いことや、まとまった平地の少なさから、商業施設のサイズは中途半端かつ人口に対して少なく感じます。生活には本来なら車が必要なのに駐車場も確保しづらい。結果、自転車やバスに頼らざるを得ない生活が出来上がります。そのうえ、家賃や地価は「横浜ブランド」のおかげで高止まりしています。
こうした現実から時折、人から「いいところですね」、「横浜に住んでみたい」という声を聞くたびに複雑な気持ちになり、ときに曖昧に笑って誤魔化してきました。
出身者からみる横浜の変化
横浜というまちの特徴をあぶり出し、パブリック・イメージの大幅なズレを解消したい。そしてズレについて事実と風景の記述によって可視化したい。そう考えて選んだ舞台が「洋光台」でした。
もちろん、洋光台のように整備された団地があるエリアは市内でも恵まれている方です。しかし、だからこそ、この街の風景は横浜という都市が辿ってきた歴史と課題を端的に映し出しています。
私が幼少期(1990年代)を過ごした別の横浜のまちには、まだ京浜工業地帯の残り香のように、小さな町工場が点在していました。そこには確かに「ものづくり」の気配がありました。
しかし、時代の変化とともに工場は次々とマンションへ変わり、生産緑地として残っていた畑も遺産相続で切り売りされ、ペンシルハウスへと姿を変えました。
戦後すぐの横浜市は、沿岸部・内陸部に工場を誘致し、港を中核とした工業都市として発展しようとしました。しかし、爆発的に増える人口を受け止めるための宅地開発と、公害対策や世界的な産業構造の変化が重なり、結果として「巨大なベッドタウン」としての発展や維持が進みました。
洋光台の団地群を見て感じたのは、その変化の「行く先」です。
「生産」の場を持たず、「居住」に特化して成熟した街。そこには、まちが成熟ではなく老いを迎えつつあることを感じました。
人口減少時代の横浜が直面する危機と今後の可能性
横浜の人口はまだ減少場面にありませんが、交通が不便な丘陵地帯では高齢化が急速に進み、オールド・タウン化の懸念が現実のものとなりつつあります。
それにもかかわらず、世間のイメージはいまだ「華やかな港町」のままです。このイメージと実態の乖離が、課題の直視を遅らせ、リスクへの対応を先送りにさせているように思えてなりません。
かつてのような「工場」ではなくとも、例えばみなとみらい地区でのR&D(研究開発)拠点の集積のように、再び人やモノ、技術が集まる「都市」としての機能をどう取り戻すか。単なる「寝に帰る場所」からの脱却こそが、今後の横浜の生存戦略になるはずです。
今回の記事では、そうした「語られることのない横浜のリアル」を、風景の描写を通じて浮き彫りにしようと試みました。
観光地としての横浜ではなく、多くの人々が暮らす「ベッドタウン」としての横浜とその変化。そんな視点で記事を読んでいただければ幸いです。
